コンフォート・ゾーンは周囲と共有されている

コンフォート・ゾーンは周囲と共有されている

嬉しいことがあって誰かに報告したのに予想外に厳しい反応でがっかりした経験がある人は多いと思います。
どうしてこのようなことが起きるのでしょうか?

実はそのメカニズムはコンフォート・ゾーンで説明することができます。

これまで何度かコンフォート・ゾーンについて説明をしてきましたが、実はコンフォート・ゾーンは自分一人のものではありません。周りの人と共有しているものです。

私自身の現状を例にとって少し説明したいと思います。

私は30代の男性で日本人です。
品川にある会社に勤務し、東京都内で生活しています。
親は誰々で、家族は誰々で、友人や仕事仲間などがいます。
また、趣味は音楽や車などで、好きな食べ物は何々で、などと、いくらでも続きます。

これらの様々な要素が積み上がって私(久野和禎)という人間が規定されます。

古くから言われるように「人は一人では生きていけない」ので、今説明したような私を取り巻く現状は私一人だけではなく、周囲で関係がある人々にとってもコンフォート・ゾーンの一部となっています。

たとえば私が男性であるという事実は私を知る人に共有され、コンフォート・ゾーンを構成しています。
その事実が変わらないことを前提に周りの人は私と関わります。
そして安定した関係を構築することができるのです。

ところが、変動しうる前提というものも存在します。
東京にいると思っていた私が実はアフリカにいたと知った時、それを聞いた人のコンフォート・ゾーンも影響を受けます。
私に何か大きな変化が起きた場合、コンフォート・ゾーンの変化を体験するのは私自身だけではなく、周囲の人々もその変化の余波を受けるのです。

多くの人は思い当たる経験があると思います。

例をあげればキリがありません。
友人が結婚することになった、同僚が出世をした、兄弟が家を購入した、知人が出産した、後輩が海外に転勤になった、かつての仲間がお店を開いた、など、いいことのはずなのに、自分の心のなかでざわめきが起きることがあります。
もちろん良くないことが起きた場合でも同じようにコンフォート・ゾーンに変化が起きます。

ここで気をつけたいのは、こういった心のざわめきは私たちがほとんどコントロール出来ない深いレベルで起きるため、無意識で反作用が生じるということです。

たとえば、私が信頼する人に「こんないいことがありました!」と報告した場合、話を聞いた人は意識のレベルでは「そうか、よかったね!」と言ったとしても、無意識のレベルでコンフォート・ゾーンの変化を阻止しようとして、逆方向に引っ張ってしまうのです。

場合によっては「そんないいことがあっても、こんな落とし穴に気をつけてね」などと言わなくてもいいことを言ってしまうのです。
それ自体は意地悪でもなんでもなくて、もっともなことだとしても、言われた方は「せっかくのいい気分に水をさされた」ように感じます。
そして、言った側も「言わなくてもいいことを言ってしまった」と悔いが残ったりします。

これはすべてコンフォート・ゾーンを維持しようとする脳の生理的な働きですので、妨げるのはほとんど不可能です。
成熟した大人だったらマイナスなことを言うのを我慢できるかもしれません。
たしかに、言わないほうがいいでしょう。
しかし、無意識でのコミュニケーションは阻止できません。
人間は言葉を交わさなくても非言語でコミュニケーションを行なっているので、無意識で生じた力を止めるすべはありません。
とても暑い日に、意志の力で汗をかかないようにすることが不可能なのと同じで、無意識で生じる「コンフォート・ゾーンの変化に対する抵抗」をコントロールすることはできない、ということです。

そうなると、これは話を聞く側の問題ではなく、話をする側の工夫で回避するしかないようにも思えてきます。
いい報告をすると、必ず反発に遭うことを知っておけばかなり気が楽になるのではないでしょうか。

もちろん、話す相手が訓練を積んだコーチであれば、そういった無意識の妨害を排除する方法を身につけていますから心配はありませんが。