お年寄りも若者も対等、当たり前

お年寄りも若者も対等、当たり前

そこにあるけれど、目には見えないもの。
空気や電波などはその典型例でしょう。
他にも思想などもそうかもしれません。
資本主義は目に見えませんが、確実に私たちの周りにあります。

日本の社会に間違いなく存在するものとして儒教の存在があります。
その姿は目には見えませんが、 多くの人の心のなかで重要な役割を果たしています。
その世界では、親は子よりも偉く、子は親を敬わないといけません。
親よりも祖父母が偉くて、そのまたご先祖様がもっと偉くて、敬わないといけません。

男性が女性よりも偉くて、長男が次男よりも偉くて、姉がいても弟が長男であれば、長男の方が偉い、という複雑なルールがあります。
偉くない方は偉い方を敬わないといけません。

デジタル大辞泉によれば、「敬う」は、対象を高位のもの、上位のものとして例を尽くす意で、「神仏を敬う」のほか、「老人を敬う」「恩師を敬う」のように用いる、とあります。

敬われるほうは、高位のもの、上位のものなのです。

この考え方に、私は共感できません。
人は本来、平等ではないですか?と言いたいです。
なぜ、先に生まれたというだけで、敬われる立場になるのでしょうか。
全く理解できません。

ところで、先に生まれた人を「先生」と呼ぶのも、特徴です。
現代では「先生」は何かを教える人だったりしますが、元々はきっと先に生まれた人は偉い、という言葉だと思います。

この考え方は便利なのかもしれません。
特にすでに権力を持っている人にとっては。
例えば、古い時代にどこかの国に皇帝がいたとします。
その皇帝が皇帝であることの正当性はどのように証明されるのでしょう。

皇帝の父親が皇帝だったから、その息子も皇帝である、とそれ以外にはないはずです。
先祖代々皇帝だから、息子も皇帝である。
でも、冷静に考えると「なんで?」と思いませんか。

父親が皇帝だからと言って、息子が皇帝である必然性は本来ないはずです。
ところが、それを当然と思わせるからくりが儒教にはあります。
儒教には、自分よりも高位、上位の者の存在を人々に刷り込み、そこに対して無条件に「敬う」仕組みが組み込まれています。
支配者のための宗教、あるいは教えなのかもしれません。

北朝鮮で総書記の世襲が行われるとあまり面白くない割に、自国で代々殿様が世襲されてもちっとも気にならないほど、日本には浸透してしまっているのです。
日本で二世議員がたくさんいますよね。
これも同じからくりにやられています。
無意識に、先に皇帝を承認しているのと同じように、二世議員を承認してしまうのです。
儒教、すごいです。

もし自分が大権力者だったら、大いに推奨してしまうかもしれません(笑)
もちろん冗談ですが、少なくともそうしたくなる人の気持は分かってしまいます。
支配するのがだいぶ楽になりますから。(念のため、わたしは推奨しません)

冷静に考えれば、年寄りは若者よりも偉いということはありえません。
社会のために頑張ってくれたので、若者はお年寄りに「感謝し、大切にする」のが良いでしょうが、高位、上位として扱う必要はありません。
まあ、それもお年寄りは自分のために頑張っただけかもしれないので、微妙ではありますが、少なくとも若者世代が集団としてお年寄り世代に感謝してもいいとは思います。

いずれにしても、高位、上位はおかしいです。
若者も、お年寄りも、対等なのです。